文体2

さて文体という時、普通、和文体とか和漢混交体とかの国語全体のなかの大きな分け方と、紫式部の文体とか夏目漱石の文体という時の個人の文体に分けられますがさきのエントリーで問題にしたのは前者のほうです。


個人の文体の中には成功したものも数多くあると思うんですけれどもやはり問題は国語としての方にあると思うわけです。小学生の頃から作文を書かされてきたけれども作文の書き方のようなことは少なくとも小・中では教わった記憶がない。書き方などを教えると子供らしいのびのびとした感性が失われるとでも考えているのでしょうか。いや実はそういうことはありうると思うんですがそれでも作文の書き方というのは教えるべきではないかと思います。


そもそも教育とはある一定の型に押し込めるという面あるわけでそれをせずにただ自由に書かせて豊かな感性を持った作文を期待するというのは天才を見つけるのと同じような僥倖だろうし、そもそもそれは教育ですらない。さらには文を書くことに対する劣等感とか嫌悪感とかを植え付ける弊害が大きいのではないでしょうか。


昨日のエントリーにも関係することですが無理に個性を伸ばそうなどということはむなしいことでしょう。それよりも文体を持たぬ(或いは文体が未成熟である)ことにより表現されることがなかった思想がいかに莫大であったかということに思いを馳せ慄然とすべきではないでしょうか。