それぞれの朝〜言霊の力を借りて〜

考えてみたら日記とは名ばかりでその日にあったことなど何ひとつ書いていなかったので書こうと思ったのだけどまだ朝なので書くことが無かった。あえて書くならば起きた。起きました。起き申した。起き侍りぬ。


事実が単純である場合、表現の方法によっていかに伝わり方が変わるのかという実験を試みた。どうであろうか。それぞれの場合のひととなり、起きた時の様子・・・。小鳥のさえずりとともに爽やかな朝を迎えたのか、悪夢にうなされ自分の上げた悲鳴で目を覚ましたのか、はたまた天啓を授かり自らの運命に覚醒したのか、いろいろと想像力を刺激されたことと思う。


世の中に文字は溢れているがそれらを読む深度は反比例して浅くなっているようだ。言葉というのはその言葉の背負った歴史の分、実は思いもよらないほど多くの情報を内包しているものだ。


騙されたと思って試しに拙文を百編繰り返して読んでみるといい。私の馬鹿さ加減がいやというほど分かってもらえると思う。人一人を知ることの難しさを思えばこれは大変なことなんですよ!